午前は、山内先生から江戸時代、数学は娯楽であったというお話をお聴きしました。
もともと日本人は昔から数学が好きで、万葉集にも九九を利用して言葉を使っていたり、平城宮跡で出土した木簡に九九が記されていたり、平安時代の子どもの教科書には九九の教本がありました。
室町時代に、中国から算盤(そろばん)が伝来しましたが、それ以前に日本には算木というものが既にあり、算 盤を使って計算をしておりました。
今でも、着物や箱のデザインに算木崩 しや城の石垣に算木積みという形で残 っています。
江戸時代の教育は、武士が通う藩校、庶民が通う寺子屋、また各地に私塾がありました。
明治期に急速に近代化が達成できたのは庶民に高い教育環境を整えていたおかげであるといえます。
1850年頃の就学率は70~86%だったそうです。すごいですね。
また江戸時代に和算が流行した背景には、武士にとって浪人の再就職として有利であったこと、農民にとっては年貢や地方税、検知の確認でだまされないようにするために、また庄屋や名主も年貢の確認等に必要であったためと思われます。
そして1627年大ベストセラーになった算術書 吉田光由著「塵劫記」が出たことで、地域により異なっていた数の呼び名を整理したり、絵入りで鼠算、俵杉算、継子だてなど、武士だけでなく庶民も当時の生活に必要な計算ができるようになりました。
和算の発達には、数学の絵馬として数学の問題が解けたことを神仏に感謝して奉納した算額が大きく貢献しています。左の写真は天王寺区にある清水寺に掲げられていた算額です。
また遊歴算家の出現や、和算の流派ができ免許制としたこと、遺題継承などが発達を促したと思われます。
先生のお話を聴いていると、もう一度
学生に戻って数学を勉強したいと思わせていただいた講義でした。
午後から、以前の「七坂北」の続きのまち歩きです。天王寺区民センターを出発し、最初は鎌倉時代前期の歌人、藤原家隆の墓からです。家隆は晩年にこの地で「夕陽庵」を結んで余生を過ごし、夕陽丘の地名が生まれたとされる和歌を詠んでいます。
契りあれば なにわの里にやどりきて
波の入日を 拝みつるかな
次に愛染堂へ。
四天王寺四箇院の中の施薬院跡です。本尊に愛染明王を安置しているのでこの通称で親しまれています。
多宝塔は秀吉が再建し、大阪市最古の木造建築物です。
大江神社を抜けて愛染坂へ。
清水坂を通って清水寺へ。
京都の音羽の滝を模した、大阪市内唯一の「玉出の滝」があります。
午前の部でも出てきた算額が屋内にかけてあります。
また墓地を通って見晴らしの良い場所へ、今は建物で埋め尽くされている場所が海であったとはいえ、同じ景色を見たかもと古の人に思いを馳せました。
天神坂を通り、安居神社へ。
大阪夏の陣で真田幸村が討ち死にしたところとして有名です。
逢坂を横切り、骨仏の寺として有名な一心寺を抜け、一心寺の三千佛堂へ。
自然光に照らされた、たくさんの仏様に圧倒されました。
堀越神社をお参りして、統国寺へ。
境内には、ベルリンの壁が置かれています。
寒い中、ボランティアの方の熱心な解説を聴きながら、集合場所のてんしばまで歩きました。また一人でゆっくり回ってみたいと思いました。
今年は、今回の授業で最終です。
また、来年もお元気で皆さんとお会いできますように。
どうぞよいお年をお迎えください。
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